コロナ禍の生活のなかで考えたこと

コロナ禍の生活のなかで考えたこと 1


 2020年のコロナウイルスの感染は、瞬く間に全世界へ広がりました。そして、生活様式をいろいろと変えていきました。

 7月20日、キャンセル続きのフライトが、ようやく羽田空港からロンドンへ飛びました。
 東京では梅雨で、蒸し暑かったのですが、ロンドンは、22度で快晴でした。湿度が低いので、肌寒さを感じます。


半年ぶりのロンドン
 青い空に、底辺が平で、もこもこと盛り上った雲が、いくつか見えて、ああロンドンの夏の雲だ、と思いました。
 ヒースロー空港から家路へ向かう途中、レンガ造りの家々と緑の多い風景が見えてきて、ロンドンへ帰って来た感じがしました。青い空が広く見えるのは、きっと電柱がないからです。ミニ・キャブの髭もじゃの運転手は、中東の出身なのか日本人と知ると好意的になりました。アジア人はコロナで嫌がられると聞いていましたので、安心しました。
 半年ぶりに帰宅した我が家の中は、蜘蛛の巣が張っていました。
 翌日は、芝生が伸び放題の庭を眺めて、どこから手をつけようかと考えていました。雨が長い間降らなかったのか、パチオの植木鉢は、枯れているものもありました。植木鉢のイチョウの木は、葉っぱが小さくしおれかかっています。小鳥の水飲み場のたらいは干上がっていて、水草は無残に枯れ果てていました。それでも、植木鉢に水をやり、水飲み場のたらいに水を満たしました。小鳥の餌箱は、空っぽで、付近に小鳥のさえずる気配がまったくしません。桜の樹が、日傘のように枝を広げて、その下に乾燥に強いゼラニュームだけが元気よく、赤やピンクや白い花を咲かせています。

 3日目に、長く伸びた芝生を苦労して刈りました。庭は、芝生を刈ると、それだけで手入れが行き届いたふうに見えるから不思議です。小鳥の餌箱をヒマワリの種で満たしておきました。すると、小鳥が一羽きて、何日か経つとあちらこちらから小鳥が二羽、三羽と姿を見せ始めました。きっと小鳥たちは、鳴き声で知らせ合っているのかもしれません。数年前から小鳥の姿が少なくなっていたので、増えていることに安心感を持ちました。そして、水飲み場のたらいから、枯れたと思われていた水草が青い芽を出し始めました。凄い生命力です。イチョウの葉っぱも、少し大きく、生き生きしてきました。庭が、主を迎えて喜んでいる様子です。

 水飲み場に、小鳥がやってきました。たらいの縁にとまり、頭をかしげて考えるふうな動作をして周りをうかがい、くちばしで水をすくって飲みます。また頭をかしげて安全を確かめるような動作をして、水の中に入り、羽ばたきをしながら水を浴び、羽毛でふくらんだ体を震わせ水をきると、ぱっと近くの桜の枝に移りました。小鳥の水浴びは、見ていて微笑ましいのですが、ブラック・バードや鳩は水の中にはいると、何回も大げさに羽ばたきをして、周りに大量の水をまき散らし、ずうずうしいといった感じです。

 久しぶりに雨が降りました。ロンドンは、天気が急に変わります。晴れた明るい日には、レンガ造りの家々は南国の明るい印象になりますが、曇ると家々は暗くなり、モノクロ映画の銅版画のような風景に一変します。
 それでも、雨に濡れた樹々や、庭の植物は喜んでいるような感じを受けます。
 それから、まだ雨が降っているのに、急に陽が射してきました。アイルランドや英国に多い天気雨、キツネの嫁入りです。庭の周囲の木立ちは濡れそぼり、鬱蒼とした木立ちに囲まれた庭の隙間に、さっと一条の光が射しました。静寂な空気を、一本の矢が刺し貫いたようです。
 そこは、何か特別で、神聖な空間を感じます。沖縄の御嶽(うたき)に似た神聖さが宿っているようでした。
 そのような庭を眺めて自粛生活をしていると、普段忙しいときには気がつかなかったことに気がつくので不思議です。

 いつものように朝、小鳥に餌をやり、ヨーガをして、読書をして過ごします。読書をする時間が取れるのは、コロナ禍のおかげかもしれません。
 ヨーガの経典 『ヨーガ・スートラ』 をひも解くと、所々に 「見るもの」 と 「みられるもの」 という表現をよく目にします。「見るもの」 とは、「真我(プルシャ)」 のことで、本当の自分ということです。「見られるもの」 とは、「自然・自性(プラクリティ)」のことです。自分の肉体も心も、「見られるもの」 になります。

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