コロナ禍の生活のなかで考えたこと 7
言葉のない世界
私には、言葉のない世界を、垣間見る体験がありました。
2017年11月に、チベットを訪れた折、ヤムドク湖という海抜4500メートルの湖のほとりで瞑想をしたときのことでした。空気が薄いためにちょっと動くと、体が重く感じられ、息が切れます。そして、頭が働かないのです。湖の前の山を見て瞑想しました。言葉が出て来ないのです。前の山を見て、山という言葉が出て来ないので、ただ見えているものが、そこに在るというふうです。禅の表現で言ったら、山であって山でない、というのでしょうか。
普通は、心の働きによって、次から次に言葉が湧いてくるのですが、言葉が湧いてこないのです。そのため、心配も不安も恐怖もまったくないのです。心は深い静寂そのもので、平安に包まれていました。
数分経ったと思って時計を見ると、もう30分が経過していました。この言葉のない世界は、哲学者西田幾多郎のいう純粋経験なのだと思いました。
言葉のない世界のことは、脳科学者のジル・ボルト・テイラーが、脳卒中を起こして、左脳を壊し、言葉のない世界を体験したことを書いています。(『奇跡の脳』
彼女は、「傷ついた脳の中で広がる虚空に、うっとり見せられてしまいました。脳の中に静寂が訪れ、絶え間ないおしゃべりがひととき解放されたことがうれしかった。あのおしゃべりは、今となっては騒がしい外界の些細なことでしかない。」
「意識は右脳の静けさを表現できるように変わっていきました。解放感と変容する感じに包まれて、(略) 仏教徒なら、涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。」
「『自分であること』 は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ個体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。」
「わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。」
孤高の哲人クリシュナムルティは、言葉のない世界を、「思考と思考の隙間で広がっていく沈黙がある」 と表現しています。瞑想して、頭の中で、言葉が出てきて、それが消え、次に出てくる言葉の間に、沈黙が広がる。それが言葉のない世界といっているようです。
言葉がないと、現実生活で生きていくのに困るのではないかという疑問がでてきます。言葉のない世界に、そのままでずっといる訳ではないのです。パラマハンサ・ヨガナンダの自伝(『あるヨギの自叙伝』)を読むと、聖者は山に籠って修行している人だけではなく、サラリーマンで仕事をしたり、家庭で奥さんにこごとを言われている聖者がでてきます。ヨガナンダは、瞑想をして硬直状態になっている初期の段階を、サビカルパ・サマーディといい、さらに高い境地ニルビカルパ・サマーディに達すると、「普段と全く同じ状態で宇宙意識を保持しながら、日常の仕事に従事することができる」 と述べています。これから推測すると、高いレベルで宇宙意識と一体になっている時は、言葉を使って日常生活が可能なのです。その場合は、言葉を選んで、必要な時に、必要な言葉を使うのだと思います。
科学者が、言葉を使って研究する場合は、言葉には価値がありますが、その他の心配したり、不安に思ったり、嫉妬したり、悩んだりする言葉には、価値はないのです。
生きながら解き放たれた人を、ジーバンムクタといいます。教典では、ニルウ゛ィチャーラー・サマーディ(思考を超えた無垢清浄の三昧)に到達するとジーバンムクタの存在になるといいます。
ジーバンムクタは、普通に生活しながら宇宙意識と一体になっていて、必要な時に必要な言葉を選んで使っていると思います。
私たちも、日常生活では、なるべくいい言葉を選んで使うべきなのです。そうして、言葉の究極を知って、言葉を超えた世界に入り、宇宙の叡智・レンマ的知性によって自分とは何かを知ることができるのです。
教典から学んだこと(一)
真我=純粋な自己意識は、どこか遠くにあるのではありません。今ここに座っている自分が、真我です。普通はそう自覚できません。それは、教典が教えているように、真我は、心の働きに同化してしまうからです。
自分は、男であると思っている人は、真我は男になります。銀行員であると思っている人は、真我は銀行員になります。医者であると思っている人は、真我は医者になります。悔しい、悲しいと思っている人は、真我は、悔しい、悲しい人になってしまいます。病気だと思っている人は、真我は病気になります。
真我は、常に平和と光明に満ちた存在であるのに、心の働きによって同化してしまうので、自己意識では自分が真我であることが分からないからです。
これを、私なりにヨーガの実践に役立てようとしたら、こうなります。
私は、心でもないし、肉体でもない。なぜなら本当の自分は、真我であるからだ。
真我は見るものであり、知るものである。
真我は、日々、私が日常生活で行為するのを見ています。
私は、苦しんだり、悲しんだり、喜んだり、嫉んだり、そして心が欲望を生み出すことを知っていますが、私は、それらに巻き込まれることはありません。
以上を、ヨーガをやった後に、アファメーションするのです。そうしたら、いつも真我を意識できます。