コロナ禍の生活のなかで考えたこと 3
『ヨーガ・スートラ』 を読む
私は、このことがあってから、注意深く 『ヨーガ・スートラ』 を読み返しました。
ヨーガに、制感(プラティヤーハーラ)という言葉があります。感覚を制するということです。
「制感とは、諸感覚器官が、それぞれの対境と結びつかなくなって、心の自体の模造品のように見える状態をいう。」(二・五四) とスートラにありました。(以下、スートラは、『解説ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治著による)
心が感覚対象から引っ込むと、それに追随して感覚器官もその対象から退く、というのです。心が痛くないと思うと、ちょうど亀が、手首を引っ込めるように、感覚器官もその対象から引っ込むのです。それを、心を模倣すると表現したのです。
マハトマ・ガンジーは、医師に麻酔を断って、盲腸の手術を受けたそうです。手術後、お弟子さんたちと笑顔で談笑している写真がありますが、ガンジーは完璧にプラティヤーハーラーができたのでしょう。
さて、私のことですが、なぜ最初に 「本当の自分が痛くないと思っても、痛いものは痛いのだ」 と思ってしまったのでしょうか? それは、私の普段実践しているアーサナにあると思いました。自分がやっているという、自己中心の自我にあったと思います。スートラに、次の経文があります。
「坐り方は、安定した、快適なものでなければならない。」(二・四六)
私は、ヨーガを始めたころ、限界まで筋や筋肉を伸ばし、難しいポーズを頑張って作ろうと努力をしていました。そして、努力した結果、ポーズができたときは喜びました。
これは、スポーツの世界です。オリンピック選手たちを見ていると、涙ぐましい努力をして、記録を伸ばし、相手に勝つと、「やったー」 といって歓喜します。自分は、努力すればできるのだと確信します。自分がやっているのだという意識です。これは、これで悪いわけではありませんが、自分がやっているという自我(エゴ)が、だんだん強くなってしまいます。自分が一番強い、と思ってしまう格闘技は特にそうです。時々、アスリートから 「自分を褒めてあげたい」 という言葉を耳にします。これは、エゴを褒めてあげたいということになります。
一方、ヨーガは、努力したり、頑張るものではなく、「快適なものでなければならない」 というのです。そして、次の経文、
「安定した、快適な坐り方に成功するには、緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなければならない。」(二・四七)
快適な坐り方をするには、緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させることであるというのです。ヨーガ・スートラの解説者佐保田鶴治は、「この無辺(ãnantyaアーナンティヤ)は仏教(略)と通ずるところがあろう。ちなみに合一(samãpatti)とは定のことである。坐りをマスターすれば定、三昧の極致に達することができる。道元禅師が只管打坐を提唱したのも、このような体験から出たのかと思われる。」 と述べています。
アーサナの再考
私は、アーサナのやり方を変えました。このことは、『いのちの知恵』 の 「ヨーガと能について」 にも書きました。
今までは、自分がポーズを作っているという気持ちでしたが、自分の姿を客観的に見ることにしました。見るものから、自分の肉体を見られているものにしたのです。すると、自分の肉体のここが突っ張っている、ここが硬い、この部分が痛いなど、第三者の目から見ることができてきました。そうすると、私の肉体は、自分であって自分のものではないことに気がついてきました。
物を食べる時に、よく噛んで、甘い、酸っぱいなどを味わうことは自分の努力できますが、その後、胃でよくこなし、腸でよく消化吸収しようと自分で努力してできるものではありません。食べた後は、すべて体に任せています。体に、宇宙の叡智・レンマ的知性があるのです。細胞一つ一つは、独立した意識のある生き物です。それが、六十兆個の細胞がネットワークを作って働いてくれているのです。その生かしている大元が、宇宙の叡智・レンマ的知性です。
妊娠している女性が、お腹に赤ちゃんがいるのを感じて、自分で努力して赤ちゃんを育てているとは考えません。何が起きているか分からないが、お腹に任せていると思っています。このお腹で赤ちゃんが育つ力は、宇宙の叡智・レンマ的知性そのものです。
ポーズを作って、快適にリラックスして、見るものになって自分の肉体を見られるものにすると、宇宙の叡智・レンマ的知性へ導かれます。経文でいう 「心を無辺なもの」 へ向けることができます。すると、どうなるかが、次の経文に述べられています。
「その時、行者はもはや、寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等の対立状況になやまされることがない。」(二・四八)
私たちは、努力しても報われないことが多くあります。望むものと正反対なことが、よく起こります。その時に、快適なアーサナで、心を宇宙の叡智・レンマ的知性に向けることで、有頂天になって喜んだり、悲嘆にくれたりする両極の攻撃にさらされなくなり、心を平安に保つことができるのです。