旅と輪廻 (3)
その体験は、こんなふうに展開して行きました。
このヒンズー教の聖地、マハーバリプラムで2週間ほど静養した私は、少し体力を回復しました。そして、休み休み旅を続けて、とうとうスリランカへ船で渡りました。
スリランカへは、インドのラメシュワラムという港を昼頃出たのですが、すべてがゆっくりと進むために、スリランカの港に着いたのが、夜中になってしまいました。鉄道の駅近くのレストランで、バナナ入りの炊き立てご飯を食べたのを覚えています。木のように固いバナナが、ふかした芋のような感触でした。そして、真夜中、電球のつかない夜行列車に乗り、コロンボへ向かいました。
朝方、ヤシの林から陽が射し込み、目がまぶしくて、暗い車内が明るくなりました。周りの景色は、南国に来た雰囲気でのんびりした感じでしたが、インドの大陸では感じたことがない湿気を強く感じました。
私は首都コロンボに着いて、前もって旅行者から聞いていたヒッカドゥワへ向かいました。バスで3時間くらいの所にある海岸のリゾート地でした。海岸にはヤシの樹がびっしりと生え、海の沖にサンゴ礁があり、そこで波が遮られ、そこから白い砂浜までは湖のように穏やかでした。その海中には、色鮮やかな熱帯魚の群れや、ウミガメなどが泳いでいて、スリランカの民族調のホテルに、多くの北欧の旅行者たちが宿泊していました。その頃は、民族抗争もなく、ゲリラもいなかったので、外国人旅行者は平和で穏やかでした。
私は、民宿へ入ると、すぐにベッドへ倒れるように横たわり、そのまま眠ってしまいました。どれだけ眠ったのかよく分かりませんでした。翌早朝、目を覚ましました。すると、今、自分がどこにいるのか分からないのです。どう考えても、さっぱり分かりません。ここはどこなのか見当もつかないのです。ちょっとしたら思い出すだろうと高をくくって、ベッドに横になっていました。それでも、さっぱり思い出せません。すると、不安になってきました。ひょっとすると、記憶喪失になったのかもしれない、と考えて、自分の名前から、生年月日から、日本の住所を声に出して言いました。それが言えたので、私は記憶喪失ではないと少し安心しました、しかし、自分が今どこにいるのか皆目見当がつかないという不安は、だんだん恐怖になり、そして、さらに不安が募って行きました。心臓の動悸を感じ始め、冷や汗がでてきました。
私は、ベッドの中で、一生懸命に思い出そうともがいていました。すると、頭の中に、突然、砂漠を歩いている自分の姿をみつけました。ああそうだ、そうだ、イスラエルにいたんだ、キブツに滞在し、シナイ半島の砂漠を歩いていたぞ、それから、スペインへ飛び、鉄道でドイツのハンブルグへ、そしてキール港からフェリーでスウェーデンのマルメへ渡り、そこからヒッチハイクで2日かけてストックホルムへ行ったんだっけ。私は、頭に浮かんでくる記憶を、細心の注意を払って、糸が切れないように、一生懸命に、ていねいにたぐり寄せていました。それは、まさに宇宙の金庫から、人生の大切な収穫物を紡ぎ出している行為そのものでした。
私は、スウェーデンで、日本へ帰る旅費を作るために、皿洗いをするつもりでしたが、行ってみて失望しました。それには半年以上前から、仲間うちで仕事を引き継ぐコネをつけていないと、どこの店を訪ねても仕事の空きはないと断られたのです。ストックホルムで何週間も無駄にした果てに、私はその当時に流行っていた針金細工の首飾りやブローチを売り始めました。本当は、そんなヒッピーめいた仕事はしたくなかったのですが、お金を得るためにはこれしかなかったのでした。そして、針金細工師のヒッピーが作った首飾りやブローチをバッグに入れて、路上で売ることにしたのです。
その彼とは、以前ギリシャで出会い、友だちになりました。そのヒッピーに、私があてもなくストックホルムの町をさまよっている時、偶然に再び彼に出会ったのです。彼に事情を話したら直ぐにOKしてくれ、売り上げの3割を納めることで話がまとまりました。しばらくして、これではホテル代と食事代と交通費を引いたら、あまり貯金ができないことが分かりました。そこで、私は自分で針金やビーズを仕入れて、ペンチも2種類買って、見よう見まねで自分で作ることにしたのです。そうして、一人で、北極圏の町からストックホルムの近郊の町まで、広範囲に首飾りとブローチを売り歩きました。最初は、首飾りを路上で売ることに、どうしても気恥ずかしくて、抵抗があり、落ち込んでしまいました。私は、その時の気持ちをノートに記していました。