2016年インド旅行記(2) 旅と輪廻

旅と輪廻 (9)

 

 その超満員のバスの乗客が、段々減ってきて、午後四時三十分に、国境へ着きました。しかし、国境のゲイトは、三時に、すでに閉まっていました。
 今夜、私は、パキスタンのカスタム・ハウスに泊まることにしました。夕食は食べる気がしないので、バナナを買って食べました。イレブン・アップという清涼飲料水があったので、それを買って飲もうとしたら、ビンの底の方に丸い薬の錠剤のようなものが、半分溶けかかって残っていました。その店の主人に文句を言ったら、「ノープロブレン」と首をふりながら言います。私は、気味が悪いので、飲まないで捨てました。

 

 夕方、熱帯の木立の間に沈んでゆく夕日が、鮮やかで、きれいでした。このとき、やっと群集から解放されたような気分になりました。

 

 カスタム・ハウスは、国境が閉まると、中はガランとして無人になりました。そこへオフィスの係官が二人きて、何かリストをつくっていました。それが終ると、外は犬がくるので、カスタム・ハウスの中で寝るようにと言い、ただし机の上で寝ることというアドバイスを残して、二人の係官はそこを去って行きました。
 夜中、大きな固い机の上に寝ていると、床を走り回る小動物がいて、時々、ガリガリ何かをかじる音がします。起きて下をのぞくと、子猫ほどもあるネズミがいて、私は背すじがゾッとしました。

 

 ようやくパキスタンの国境を越えて、インドへ入りました。北インドのアムリッツァーという町で、私は偶然にもゴールデン・テンプルの中で休むことができました。そこはシーク教の総本山でした。今は、ものすごい巡礼者の人込みで、中へ入るのも大変らしいですが、40年前はほとんど人影がなく、中はがらんとしていました。
 私は、巡礼者にならって、クッションを枕にして、大理石の回廊に横たわりました。暑気の中で、大理石は冷たく体を冷やしてくれます。ゴールデン・テンプルの池から吹いてくる風は心地よく、私は、自然に涙を流していました。そして、私は、風に生かされている、大自然に生かされている、人々に生かされている、という思いを実感しました。

 

 そうして、とうとう私の記憶は、インドまでたどり着きました。ここまで、文章にすると長いのですが、意識の流れでは時間の感覚はなく、インドのアムリッツァーの記憶からは、あっという間に、南インドのマハーバリプラムへ来たことを思い出し、今、自分がスリランカのヒッカドゥワに居るということを理解しました。

 

私のこれらの体験は、宇宙の金庫から紡ぎ出された体験は、前世のような気がしてなりませんでした。また、夜の眠りと朝の目覚めは、死と生を繰り返す輪廻に似ていて、旅と輪廻も同じ構造なのではないかという思いに至っていき、そのことを心にとどめておきました。

 

 やがて、心にとどめておいたこの体験は、のちに私に輪廻の考えを、理解する手助けとなりました。そして、この体験を契機に、ヨーガや仏教の輪廻という思想を深く理解していきました。

 

 ところで、輪廻とは何でしょうか。私たちは、輪廻とは、死んでも生まれ変わる、生まれ変わりを繰り返すというふうに理解しています。自分が死んで、その後のことだと思っています。今生きている時とは、無関係だと思っています。だから輪廻は、死後を信じる人にはあり、信じない人にはないということになります。

 

 でもよく考えてみると、輪廻は、信じようと信じまいと、今、この瞬間にも起きているのです。というのは、私たちの体の中の細胞は、日々、死んでは生まれ、生まれては死んで入れ替わっているからです。つまり古い細胞は死んで、新しい細胞が生まれて、日々新陳代謝を繰り返して、輪廻しているのです。ですから、昨日の自分と今日の自分では、厳密には肉体は違うのです。1年前の自分と、今の自分ではかなり違います。肉体は輪廻しているのです。
肉体だけではありません。心も日々変化しています。同じ体形なのに、今日はこの服を、明日はこの服を着たいと心は日々変化しています。食べることでも同様です。同じ料理を一週間続けて食べたいとは思いません。昨日と今日の自分では、心は違うのです。1年前と今では、心はかなり変化しています。心も輪廻しているのです。

 

 では、一般の輪廻のイメージとして、他人に生まれ変わることはどうでしょうか。私のスリランカの体験からすると、別の人に生まれ変わることではないと思います。夜眠って、朝起きたら他人になっていたということは、ないからです。他人ではなく、むしろ自分に生まれ変わるというべきです。

 

 インドの『バガウ゛ァッド・ギータ―』には、「人が古い衣服を捨て、新しい服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く」と述べています。主体とは、真我だと思います。古い肉体は、土に帰りますが、真我はまた新しい肉体をまとうのです。真我が、別の他人の真我を乗っ取り、他人になりすますのではないのです。

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