旅と輪廻 (1)
時よ来い
ああ時よ来い
心の燃え立つ時よ、 来い!
フランスの詩人アルチュール・ランボーのこの言葉は、25歳になった当時の私の心を揺さぶりました。大学紛争、学生運動、安保闘争、デモと機動隊の衝突、各セクト同
士の抗争、浅間山荘の凄惨なリンチ事件などのさ中にあって、私の心は鬱屈していました。何とかこの閉塞感を打ち破りたい、と思っていました。そして、サラリーマンになって3年目を迎えたある日、私はこのランボーの言葉に動かされて、会社を辞め、海外へ脱出しました。そして、再び日本へ戻るまでの5年間、放浪の旅をしました。
それから40年余が経ちました。2016年の今回のインドの旅は、私にとって、特別な思い入れがありました。それは、40年ぶりに、南インドのマハーバリプラムを訪れることでした。このマハーバリプラムは、私がサソリに刺されて、死を覚悟して、どうせ死ぬなら、日本で死にたいと思った場所です。また、村の稲の田んぼを見て、デジャヴ(既視感)を感じた所です。
当時、インドを旅していた私は、ネパールのカトマンズからカルカッタへ向かう途中、急性肝炎に罹ったらしく、カルカッタで発症してしまったのです。身体がダルくて、尿が薄茶色でした。
私は、カルカッタにある英国人が開業しているクリニックへ行きました。そこで、急性肝炎と診断されました。肝炎に効く薬はありません、治すには食事療法だけです、と言われ、気休めに肝臓を強化するという注射、ガンマグロビンをお尻にうってもらいました。そうして、旅を続けることにしたのです。しかし、食べると吐き気がするし、歩くとダルくてしんどいので、とうとうマドラス(現チェンナイ)でへとへとになり、身体の限界を感じました。
そんな折、ヨーロッパ人の若い旅行者から、マドラスからバスで3時間くらいの所に、マハーバリプラムというのどかな村があり、そこには美しい海岸寺院があると聞いたので、私は、そこで静養しようと決め、その村を目指してバスに乗りました。そうして、その村にしばらく滞在することになったのでした。
今、私たちを乗せた貸切観光バスは、マハーバリプラムの村の中を走っています。それは、村というより世界文化遺産のある町になっていました。40年前の村とは、余りにも変わっていました。家々の数がものすごく増えていて、お店やレストランがやたらと軒を連ねています。私が滞在していたころは、簡素な村でした。バラック建てのレストランが数軒あるだけで、バナナの葉っぱの上にライスとカレーが盛られ、それを手で食べて、終わったら店の男が、そのバナナの葉っぱをぽいっと道路へ捨てるのです。それを牛が来て食べるという、のどかな光景が日常でした。
今、私はバスから降りて、お昼を食べているレストランの3階にいます。そこから見下ろすと、通りにはお土産屋の店が並んでいます。通りの外れには、山の崖の一枚岩に彫られたものとしては、世界最大のレリーフ(高さ9メートル、幅27メートル)「ガンガの降下」があります。このレリーフと海岸寺院を含むマハーバリプラム建造物群が、1984年に世界文化遺産に登録されたのです。そして遺産保護の補助金が支給されたのでしょう。周りは、何か必要以上に整備されて人工的になっていました。
当時、夕方になると、私はレリーフの横にある細いけもの道を登って、山の頂上から地平線に沈む真っ赤な夕日を眺めたものです。そして帰りに、その夕闇のけもの道で、私はサソリに刺されたのです。そのけもの道は、今はコンクリートで広く舗装されていました。
それから、町の中を歩きました。以前、村の中央にあった広場には、新しく作られたヒンズー教の寺院が、いく棟も建てられていました。昔泊まった民宿らしきところもありましたが、周囲の家々が新しく、雰囲気がまったく違っていました。巨石をまるごと寺院や象やライオンなどに彫刻したファイブラタス(石彫寺院)は、昔のままでしたが、それから浜へ続く道は、きれいなスラブ(コンクリートの板床)が敷き詰められていました。その両側には、石の彫刻などを売るお店が軒を連ねていました。すべてが様変わりした中に、ただ一つだけ残っているものがありました。それは、村人が沐浴するための階段のついたテニスコート大の四角い池でした。当時私は、民宿からその横を歩いて、海岸へ出かけていました。今はそれを利用していないのか、その周囲を金網のフェンスで囲ってありました。金網は、赤く錆びに蔽われていました。
私は、昔は砂浜だったところを、今、コンクリートのスラブを敷き詰めてある広場を歩いていました。入園料の切符売り場のキオスクの周囲は、芝生が植えられ、松の樹などが植林されて、すっかり垢抜けした様子でしたが、昔の風情のある趣は、まったくありませんでした。