旅と輪廻 (8)
それから、通りに面したレストランで、食欲がなかったのでチャイだけ飲み、快晴だったので、「イスラミック・ハイ・スクール」という学校のグラウンドの芝生の上で横になっていました。
心地よかったので、うとうと寝ていると、いつの間にか大勢の学生に囲まれていました。その学生の一人が、パキスタンなまりの英語で、いろいろな質問をしてきました。私は質問に答えながら、その学生が着ている服の胸の所に、「○○農協」と日本語でネームが入っているのを見て、思わずほほ笑んでしまいました。きっと日本の援助物資が闇マーケットに流れて、それを買ったのでしょうか。
午後三時頃、鉄道の駅へ行きました。私は、ラホールまで、二等の切符を買いました。十八・一〇ルピーでした。その時、私の前に三人のフランス人が切符を買っていました。彼らとは、イスタンブールで会ったことのある連中でした。そのフランス人と駅員がもめていて、なかなか私の番が来ないのです。彼らは、確かに切符代三人分を払ったと言ってました。しかし、駅員は、絶対二人分しかお金を受け取っていないと言い張っています。そんなことで、三十分も時間が過ぎました。結局、フランス人がおれて、もう一人分を払うことになりました。私は、銀行で両替したり、切符を買ったりするのにも、ひと苦労な世界にやってきてしまったな、と思いました。
汽車は、夜の九時頃、ホームに入ってきました。私は行き先が同じだったので、三人のフランス人の旅行者たちと一緒に、汽車に乗ることにしました。
「カイバル・メイル」という夜行列車は、九時三十分に出発しましたが、汽車が入って来るやいなや、ものすごい座席の奪い合いになりました。ヨーロッパでは、おとなしく列をつくって並んでいれば、必ず席はその順番通りに取れます。が、ここではまったく違っていました。私達が最前列なのに、私たちの横から割り込み、他人を押しのけ、争って席を取り合うのです。私も、割り込んでくるパキスタン人を押しのけ、窓から入ってくる男の前にリュックを突き出しました。男は、「アチャッ!」と首をふって言うと、他の窓へ向かいました。こんな社会は、良くないに決まっています。が、不思議なもので、私は、なんだか元気が出てきたのです。私の中のアジアの血が、私を元気にしてくれるようでした。
こうして、私たち四人は、何とか座席を確保できました。すると、あとからミリタリーの連中がぞろぞろ入ってきて、三人の腕に、「MP」と腕章をつけた憲兵が、片っぱしから座っている人を立たせて、その空いた座席にミリタリーの連中を座らせました。席を追われた乗客は、不満顔でしたが、みんなだまって従いました。私たちは、どかされなくてほっとしましたが、一人パキスタン人の中年の男は、「立て」と言われても応じませんでした。すると、MPに、胸ぐらをこずかれ、汽車からホームへ、乱暴に放っぽり出されました。そのあと、私の隣のフランス人の青年は、MPに身体検査をやられました。
汽車の中は、乗客で一杯でした。通路にも、網棚の上にも、人々は座っていました。網棚に座った人が、カレーの弁当を食べると、そのカレーのしずくがぽたぽた下にたれるのですが、下の人はただ黙認して文句をいう様子もありません。また、駅にとまるとチャイや揚げた食べ物や日用雑貨などを持った少年たちが、混雑の中へ入ってきて売り歩くのです。あるいは、遊吟というのでしょうか、鐘をたたき、何かの物語りを節をつけて歌い、お金を集めにくる親子がいます。私は、これらの人々が無理やり乗り込んでくるたびに、これでもか、これでもか、と拷問されているように感じました。私は、人が異様に詰まった夜汽車の中で、息苦しくなり、頭がクラクラするようで、大声で叫び出したいような自分の気持をコントロールするのに、精一杯でした。
「カイバル・メイル」号は、朝方八時三十分に、ラホールの駅に着きました。
私たちは、一緒にチャイを飲み、今後の予定を話しました。私は、ラホールの博物館へ行く予定でした。フランス人たちは、このままインドへ行くというので、私は駅で三人
と別れました。
ラホールは、パンジャブ州の州都で、古来から文化が栄え、人の数も多く、活気が感じられました。
日中は暑く、Tシャツ一枚になりました。風邪で熱があり、食欲もなく、頭痛もしてふらふらしていました。私は、鼻水をすすりながら、人ごみの中をふらついて歩き、ラホール博物館にたどり着きました。
ここで、私は、ガンダーラの有名な「苦行中の釈尊像」を見ることになりました。「Fasting Buddha」(断食中の釈迦)と、その像のガラス・ケースのへりに名札がありました。
ブッダの像は、不気味なほど写実的でした。私は、古代のペシャワールの人たちの観察力の確かさを思い出しました。落ちくぼんだ眼窩、骨にはりつくような筋肉と皮、一本一本浮いて見えるあばら骨、全身に浮き上がた血管など、まるで生きながらミイラになりかけたようなブッダの肉体が、上から照らす証明のせいで、かすかに動いているように感じられました。
私は、ラホールの「断食中のブッダ」に別れを告げて、駅へ引き返しました。
バスで、私はインドの国境の町ワガへ向かうことにしました。バスは、なかなか来なくて、ようやく午後二時五十分に、バス停に着きました。すると、黒山のようにバスを待っていた人々が、どっと乗降口へ殺到しました。バスの中は、イスラム教の国らしく、男と女を網でしきってありました。そのどちら側も一杯です。身体障害者も一般と同じように乗り込んできて、その中へ物売りも乗り込んできて物を売る人もいます。そして、ドアの入り口には、鈴なりになった人々が必死に手すりにつかまっています。車掌が笛を吹く音がして、バスは走りだしました。