宇宙の叡智―レンマ的知性について

宇宙の叡智―レンマ的知性について (6)


 南方熊楠が、那智の山に籠って粘菌を研究した時に、大乗仏教の 「華厳経」 を持って行ったことは、大変な意義のあることでした。
「華厳経」 には、レンマ的知性の働きが最高度に達すると、存在の全域で、物と物はお互いに空であり、同じ構造をしているので、「相即相入」 を起こすということ。「相即」とは、二つのものが差別なく一つに融け合うことを意味し、「相入」 とは、二つのものの間に自在な力の行き来が起こっている状態をいうこと。この時、物と物の間に、力の出し入れが起き、一方は力を得て顕在化し、もう一方は力を失って隠れてしまう。しばらくしてまた現れて作用する。このことを、華厳経では、「相即相入」 ということ。この相即相入こそが、『華厳経』 に説かれた 「一即多、多即一」 を作り出す根本原理であること。そうして複雑な過程をへながら、縁起の全体運動が起こっていく、この過程を、熊楠は粘菌を研究していくうちに、華厳経の思想を理解していったと思われます。

 実際、粘菌の働きをみると、そのことがよく分かります。現代生物学の粘菌研究は、迷路の奥に粘菌が好きなオートミールを置く実験をしています。脳も中枢神経を持たない粘菌が迷路いっぱいに広がって、餌を見つけるとそこだけ残して他の枝を引っ込め、最短距離を計算して粘菌の形状を最適に変化させていきます。
 粘菌は、最初、レンマ的知性を発揮して餌を見つけ、その後ロゴス的知性で最短距離を計算したのです。この脳のない粘菌に、南方熊楠は、大乗仏教の哲理を直感したのです。熊楠が、「大乗仏教に望みあり」 と思ったのは、西洋のロゴスを超える新しい発想を得たからに違いありません。

 ところで、意識は、いつ生まれたのでしょうか。カンブリア紀(5億4千万年)に、中枢神経を備えた生物が、爆発的に、多種多様に出現しますが、この中枢神経を備えた生物が現れて、意識が生まれたのではありません。意識は、原始的な一個の単細胞から生まれたといいます。意識は、分別です。薄い膜一つを隔てて、内部 「自己」 と外界 「非自己」 を差別したときに生まれたのです。

 中沢新一によると、レンマ的知性は、大乗仏教が開発した 「縁起の思想」 が基礎になっているといいます。もともとは、ブッダが瞑想中に、「ものごとはつながりのあることによって生ずる」 という内的体験から始まっています。そこからのちに大乗仏教は 「すべての現象は相互依存の関係でなりたっている」 という意味を引き出し、さらに 「すべての現象は縁起するゆえ、固定的な実体を持つものはなく、固執する対象もない」 という意味に広げていったというのです。

 華厳経では、大乗仏教の基礎にすえられたあらゆる心的現象の土台を、法界(ほっかい)といいます。この全域をレンマ的知性の活動が充たしていると考えます。それは、あらゆる生命現象の根底で働いていて、人類も例外ではありません。そして、純粋レンマ的知性を 「如来蔵」 と呼びます。「如来蔵」 とは、如来を胎児として宿す、という意味です。そこに分別や時系列を本質とするロゴス的知性が入り込んでくると、レンマ的知性の変異体となって、人間の心の一番奥にある 「アーラヤ識」 に、レンマ的知性とその変異体(ロゴス的知性)の二つが働くことになり、その状態が無明と呼ばれ、あらゆる苦悩の心的現象を生む原因になるのだと述べています。

 「アーラヤ識」 は、唯識瑜伽行派というヨーガの実践を通し、心の本質を追及していったウ゛ァスバンドゥ(世親)などにより、心の核を発見しました。それをフロイトは、無意識と呼びました。フロイトが、無意識を発見する1600年も前です。
 アーラヤ識は、分かりやすくいうと、人間の心は、玉ねぎの皮のように、八つの層に包まれていると考えます。八つの層とは、上から五つ(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、六つ目の意識、七つ目のマナ識で、八つ目は一番奥にある心のコア、アーラヤ識となっています。アーラヤとは蔵という意味です。ヒマラヤ山脈は、雪(ヒマ)を蔵(アーラヤ)する山という意味です。心の一番奥にあり、すべてを蔵している所が、アーラヤ識です。そのアーラヤ識に、無意識に表れてくるもの(レンマ的知性やその変異体)を観察し研究していたのが、フロイトやユングたちです。そしてユングはフロイトとたもとを分かち、やがて、グノーシスや易経やマンダラなどの研究を始めて行きます。ユングは、レンマ的知性へ目を向けて行ったのです。

 ロゴスは、もともと脳の機能としてありました。ロゴスと脳のニューロンとは、相性がいいのです。ニューロンには、原初的な 「分類」 の能力を持っていることが分かってきました。同じことを繰り返しておこなううちに、ニューロンの先端にあるシナプスの伝達物質を抑えてニューロンの発火を止め、刺激を無視するというのです。記憶が一杯になったらゼロにして、またゼロからスタートします。

 2019年、日本人の研究者が、レム睡眠に誰でも夢を見るのに、どうしてほとんどの人が覚えていないのかを研究して、視床下部に夢を消すという、MCH神経があるということを突き止めました。これは海馬という記憶にも関係しているということが分かってきました。これは、どうでもいい夢や記憶を消して、容量が一杯にならないように、ゼロにしているのかもしれません。
 このようにして、同じ刺激を一つにまとめて、ニューロン自身が無視して扱うと、「ゼロ」 が生まれます。数の「ゼロ」 はインド人に発見されたといわれていますが、実はすでに生物のニューロンの中にあったのです。こうして 「もの」 と 「こころ」 は、「カテゴリー」 が作られ、間接的につながっていくというのです。

 空とゼロは、どちらもサンスクリット語でシューニャといい、仏教では、「なにも生まない空」 と 「生産性を持った空」 の二つがあるといいます。「生産性を持った空」は、心のゼロ空間に対応して、複雑な結びつきを生み出すタペストリー(曼荼羅)があらわれてきます。
 「何も生まない空」は、内部構造を持たない、ただ否定をおこなうゼロの発見により、計算が可能になりました。今のコンピュータもそうですが、1か0のたった二つで表しますが、0がなかったらコンピュータは何も計算できません。
 ところが、最近、量子コンピュータが発明されました。0と1とを両方重ねて一つで表示できるというので、スーパーコンピュータが1万年かかる計算を3分20秒でやってしまうというのです。日本のスーパーコンピュータ「京」の本体は、途方もない敷地が必要ですが、量子コンピュータは小さな箱一個で中はほとんど空っぽです。実は、この量子コンピュータは、日本人の研究者が設計したものを基に、カナダのあるコンピュータ会社が世界で初めて作ったものです。この設計者のアイデアは、これもレンマ的知性に拠るものでしょうか。

 この 「もの」 と 「こころ」 がつながっていくメカニズムを、「こころ」 にも見つけることができるといいます。それは、「アナロジー(喩)」の作用です。アナロジーは、似ているものを結びつける能力、これもレンマ的知性です。メタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)もそうです。
 ホモサピエンスは、アナロジーを手に入れたおかげで、女性を見て、花のように美しい女性という表現ができました。ネアンデルタール人(旧人)は、女性は女性、花は花としか思うことしかできなかったようです。俳句もそうです。松尾芭蕉が、「ゆく春や鳥啼き魚の目に泪」 と読むことができたのも、アナロジーの作用で表現できたのです。そのように、このアナロジーの作用が、ホモサピエンスに詩や哲学や宗教などをもたらしたのです。これらは、レンマ的知性がなければ生まれないのです。

 大乗仏教の経典には、「法界(ほっかい)」 という言葉がよくでてきます。法界とは、原始的生物から人間の心、脳に至るまですべての有情の 「心」 をいいます。そして、この生物が作る法界は、レンマ的知性に満たされているといいます。そして、生物は、「自己」と「非自己」を分別します。その瞬間から、レンマ的知性からロゴス的知性へ組み換えが起き、生物としての煩悩を感受するようになるというのです。

 そこで仏教では、ヨーガによる瞑想で、脳内で活動し続ける言葉の働きを停止に向かわせます。この言葉(ロゴス)の働きが後退すると、かわってレンマ的な直観的知性が全面に浮かび上がり、そのときはじめて人間の前に「真なる実在」が立ち現れると主張しました。

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