宇宙の叡智―レンマ的知性について (1)
レンマ的知性を考えるきっかけ
青年は、私の方を見て、ほほ笑みました。そのほほ笑みは、実にいい表情をしていました。それは、如来のような、どこか崇高さを感じさせる何かでした。しいて言えば、唐招提寺に安置されている鑑真像の顔といったらいいのでしょうか。そんなほほ笑みでした。
そのような印象を私に与えた青年は、実は身体障害者でした。前回来た時と同様に、首は固定されて、目は斜め上を向き、よだれをたらして、右腕は手首から直覚に曲がって顔の横に張り付いたように動きません。
その青年が、今回は不思議なことに、神々しいのです。きっとこれは、私たちの知らない宇宙の叡智が現れているのに違いないと、私は思いました。身体障障害児を持っている母親で、「息子は、天使です」 とか 「神さまです」 というのは、こういう子供の姿を見たときの感動の表現なのではないのかと思われました。
車椅子で私の気功の施術を受けにきた彼は、16歳くらいで、体は大きいのですが、自力で身体を動かすことも、話すこともできません。母親の話では、生まれた時から、脳に損傷があったそうです。
重い、大きな身体を抱えて持ち上げることはできないので、父親が携帯の電動リフトで息子を釣り上げて、マットの上におろします。時々、痰が詰まって呼吸困難になるので、その都度、母親は、息子の喉に電動の吸引チューブを差し入れて、痰を吸いとります。
時折、施術中に意味不明の声をあげますが、何かを主張しているようです。以前、脳の大部分が損傷しているというので、脳の機能を調べたそうです。病院でスクリーン上の映像と目の動きをチェックして、その結果を見て医師は、意志の疎通は難しいようだと否定的な見解を述べたそうです。
しかし母親は、「この子の脳はダメでも、感情が分かるのですよ。この子は、『天使です』」 と話していました。私は、息子さんのほほ笑みを感じて、母親の気持ちが分かる気がしました。他の重篤の子供を持った母親も、「この子は、仏さまです」 と言ったことが思い出されます。
この時、私は、人間は機械だけでチェックされて、本当に分かるものだろうか、という疑問がわきました。障害者の青年のように、脳が損傷して意志の疎通ができないと判断されたら、生きている意味がなくなるのでしょうか。そう考えた私は、ふと粘菌を思い浮かべたのです。
粘菌は、脳がないのに考えることができ、賢い生き物だったからです。その粘菌は、とてつもなく不思議な生き物なのです。この生き物は、動物でもあり、植物でもあり、動物でもなく、植物でもなく、そして死も生もなく、それらを超越している存在なのです。
「ロゴスとレンマ」
『レンマ学』 の著者で宗教学者の中沢新一は、頭を使う知性をロゴス的知性、頭を使わない粘菌のような知性を、レンマ的知性と呼んでいます。
「ロゴス」 と 「レンマ」 は、ギリシア語です。ロゴスとは、言葉、理性、論理などのことで、起きてきたことを時系列に、言葉で並べて整理するという意味です。レンマとは、全体を一気に掴み取るやり方で、あらゆる部分が全体につながっていると表現できる理性です。
中沢新一が、レンマという言葉を使ったのは、山内得立という哲学者の著書 『ロゴスとレンマ』 からのようです。山内得立によると、常識的な区別で、西洋の文化がロゴス的であるのに対し、東洋のそれはパトス(情念)的であるといわれてきた。それを論理的に西洋文化はロゴス体系(アリストテレスからヘーゲルに至る思想)と、東洋文化はレンマ体系ということができる。そして、レンマには、テトラ・レンマとディレンマの二種あり、テトラ・レンマは大乗仏教の論理をなし、ディレンマは中国の老荘思想の論理を形成しているという内容のことが述べられています。
今から二千数百年前、ギリシアのヘラクレイトスは、「万物は流転する」、「相反するものの中に美しい調和がある」 と説きました。そして、この世界の真の存在は、自然(ピュシス)であると主張したのです。この思考を、レンマといいます。
それに対して、この世は、ロゴス(言葉、理性、理論)でできていると主張する人たちがいました。ソクラテスやプラトンやピタゴラスなどです。
もともと自然(ピュシス)の中には、ロゴス(言葉、理論)もあったのですが、ヘラクレイトスの 「相反するものの中に美しい調和がある」 という矛盾する言葉は、なかなか理解されませんでした。むしろ人間のロゴスという性格は、矛盾なく整合性を持った思考であるために、矛盾のない数学的な理念世界の人々、ソクラテスやプラトンやピタゴラスのような哲学者によって主流になって行きました。
一方、レンマは、東洋へ受け継がれ、インドへ、そしてナーガールジュナ(龍樹)をはじめとする大乗仏教の思想家たちへ広まっていきます。
青年は、私の方を見て、ほほ笑みました。そのほほ笑みは、実にいい表情をしていました。それは、如来のような、どこか崇高さを感じさせる何かでした。しいて言えば、唐招提寺に安置されている鑑真像の顔といったらいいのでしょうか。そんなほほ笑みでした。
そのような印象を私に与えた青年は、実は身体障害者でした。前回来た時と同様に、首は固定されて、目は斜め上を向き、よだれをたらして、右腕は手首から直覚に曲がって顔の横に張り付いたように動きません。
その青年が、今回は不思議なことに、神々しいのです。きっとこれは、私たちの知らない宇宙の叡智が現れているのに違いないと、私は思いました。身体障障害児を持っている母親で、「息子は、天使です」 とか 「神さまです」 というのは、こういう子供の姿を見たときの感動の表現なのではないのかと思われました。
車椅子で私の気功の施術を受けにきた彼は、16歳くらいで、体は大きいのですが、自力で身体を動かすことも、話すこともできません。母親の話では、生まれた時から、脳に損傷があったそうです。
重い、大きな身体を抱えて持ち上げることはできないので、父親が携帯の電動リフトで息子を釣り上げて、マットの上におろします。時々、痰が詰まって呼吸困難になるので、その都度、母親は、息子の喉に電動の吸引チューブを差し入れて、痰を吸いとります。
時折、施術中に意味不明の声をあげますが、何かを主張しているようです。以前、脳の大部分が損傷しているというので、脳の機能を調べたそうです。病院でスクリーン上の映像と目の動きをチェックして、その結果を見て医師は、意志の疎通は難しいようだと否定的な見解を述べたそうです。
しかし母親は、「この子の脳はダメでも、感情が分かるのですよ。この子は、『天使です』」 と話していました。私は、息子さんのほほ笑みを感じて、母親の気持ちが分かる気がしました。他の重篤の子供を持った母親も、「この子は、仏さまです」 と言ったことが思い出されます。
この時、私は、人間は機械だけでチェックされて、本当に分かるものだろうか、という疑問がわきました。障害者の青年のように、脳が損傷して意志の疎通ができないと判断されたら、生きている意味がなくなるのでしょうか。そう考えた私は、ふと粘菌を思い浮かべたのです。
粘菌は、脳がないのに考えることができ、賢い生き物だったからです。その粘菌は、とてつもなく不思議な生き物なのです。この生き物は、動物でもあり、植物でもあり、動物でもなく、植物でもなく、そして死も生もなく、それらを超越している存在なのです。
「ロゴスとレンマ」
『レンマ学』 の著者で宗教学者の中沢新一は、頭を使う知性をロゴス的知性、頭を使わない粘菌のような知性を、レンマ的知性と呼んでいます。
「ロゴス」 と 「レンマ」 は、ギリシア語です。ロゴスとは、言葉、理性、論理などのことで、起きてきたことを時系列に、言葉で並べて整理するという意味です。レンマとは、全体を一気に掴み取るやり方で、あらゆる部分が全体につながっていると表現できる理性です。
中沢新一が、レンマという言葉を使ったのは、山内得立という哲学者の著書 『ロゴスとレンマ』 からのようです。山内得立によると、常識的な区別で、西洋の文化がロゴス的であるのに対し、東洋のそれはパトス(情念)的であるといわれてきた。それを論理的に西洋文化はロゴス体系(アリストテレスからヘーゲルに至る思想)と、東洋文化はレンマ体系ということができる。そして、レンマには、テトラ・レンマとディレンマの二種あり、テトラ・レンマは大乗仏教の論理をなし、ディレンマは中国の老荘思想の論理を形成しているという内容のことが述べられています。
今から二千数百年前、ギリシアのヘラクレイトスは、「万物は流転する」、「相反するものの中に美しい調和がある」 と説きました。そして、この世界の真の存在は、自然(ピュシス)であると主張したのです。この思考を、レンマといいます。
それに対して、この世は、ロゴス(言葉、理性、理論)でできていると主張する人たちがいました。ソクラテスやプラトンやピタゴラスなどです。
もともと自然(ピュシス)の中には、ロゴス(言葉、理論)もあったのですが、ヘラクレイトスの 「相反するものの中に美しい調和がある」 という矛盾する言葉は、なかなか理解されませんでした。むしろ人間のロゴスという性格は、矛盾なく整合性を持った思考であるために、矛盾のない数学的な理念世界の人々、ソクラテスやプラトンやピタゴラスのような哲学者によって主流になって行きました。
一方、レンマは、東洋へ受け継がれ、インドへ、そしてナーガールジュナ(龍樹)をはじめとする大乗仏教の思想家たちへ広まっていきます。