宇宙の叡智―レンマ的知性について (2)
脳を使わないレンマ的知性
『レンマ学』 では、脳を使わないレンマ的知性の持ち主に、タコを紹介しています。
タコは、人間なら脳に神経が集中しているのに、身体全体に分布していて、特に腕や吸盤などに集中しているという。吸盤一つに一万個のニューロンがあり、タコの腕には脳にあるニューロンの二倍近くもあるそうです。タコは、腕でも思考していて、匂いや味まで知覚できるというから、驚きです。タコは、頭を使わなくても、レンマ的知性を使っているのです。
タコには不思議な知恵があることは、古代ギリシアから知られていて、いろいろな占いにタコのレンマ的知性を使っていたようです。日本でも、確かオリンピックか何かの試合に、どちらが勝つか負けるかということをタコに聞いていました。かなり予想を当てたらしいですけれども、賢いタコは終わったら食べられてしまったようです。
脊椎動物と軟体動物の神経の発達が、大きく異なって進化したのは、エディアカラ紀(六億三千万年前)からカンブリア紀(五億四千万年前)の辺りだそうです。その時代に、生物に初めて目ができて、その目の周りに多数のニューロンが集まって、さまざまに神経系を発達させていくことになっていったからです。
タコで思い出したのですが、私はエッセイで、「以前、福岡のヨーガの講習会の前に、魚専門のレストランで、イカの刺身を食べたことがありました。まだぴくぴく動いて生きていました。そのイカの目を見た瞬間、誰かに見られているという気がしてなりませんでした。
不思議なことに、イカの目は、人間の眼球と非常によく似た構造をしていて、信じられないくらい複雑な眼球を持ち、人間の目に劣らないくらい精密にできているのだそうです」 と書いたことがありました。その時、書きながら、イカの目は人間の目に劣らないほど精密にできているのに、なぜ脳は貧弱なのだろうか。創造主のミスなのだろうかと思ったことがありました。私は、このレンマ的知性を知ってから、イカは貧弱な脳を使わなくても、立派な目からの情報を、自分の足で見ているからに違いないと納得しました。
このようなレンマ的知性を知った私は、身体障害者に対する見方が変わりました。脳が損傷している青年は、ロゴス的知性である頭脳は使えません。その反面、レンマ的知性は、表情ににじみ出てくるのかもしれません。彼のレンマ的知性が、私の存在を認めて、ほほ笑んだと考えれば、その青年の顔が崇高に見えたのは、私の錯覚ではなく、顔に宇宙の叡智が現れていたことになります。母親たちは、そのレンマ的知性の現れを、「天使」 「神さま」 「仏さま」 などと表現したのではないでしょうか。そこには、身体障害者の立派な人格が存在するのです。それを否定することは、宇宙を否定することに他なりません。
このような宇宙の叡智―レンマ的知性のあることを見落とすと、ロゴスの思考が、意志疎通のできない身体障害者は生きる価値がない、むしろ社会にいないほうがいいと考えてしまいます。実際、そのように考えた青年によって、2016年相模原障害者施設殺傷事件で、障害者が19人射し殺される痛ましい事件がおきています。
考えて見たら、瞑想は、脳の働きを努力してストップして、レンマ的知性を得る技法と言えます。ヨーガも、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガ根本経典)で、第一章の始めに、ヨーガとは何ですか、という問いかけがあり、その後に、「ヨーガとは、心の働きを止めることである」 と述べられています。ヨーガは、心の働き(ロゴス)をストップして、宇宙の叡智(般若プラジュニャー=レンマ的知性)を得る技法と言えます。
脳科学では、何も考えないことを、デフォルト・モードといいます。何も考えないと脳以外の何かが働き、ひらめきが起きるというのです。それを、デフォルト・モード・ネットワークといいます。まさに心(言葉)の働きをとめることでひらめきが生まれ、レンマ的知性が生まれるのです。
レンマ的知性の実例
岡潔という著名な数学者がいます。確かIQが平均値より低いということを聞いたことがありますが、それでも多変数複素関数論を発表し、世界で彼にしか解けなかった問題が幾つかあります。彼は、どうしても問題が解けないときはあきらめて、お風呂へ入ってお湯に浸かったそうです。すると、はっとひらめいて、難問が解けたりしたそうです。また彼は、数学には、情緒が必要だといって、数学とは関係ないように見られる芭蕉の 「奥の細道」 を研究しました。これもレンマ的知性を得るために必要だったのでしょうか。
また日本では、江戸時代に、関孝和という数学者が、独自に編み出した微積分の計算を応用して、西欧にさきがけて線形代数の行列式まで発見した人物がいます。彼の発見も、レンマ的知性を使うことで実現したのでしょう。
最近でも、ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が、iPS細胞は机の上では発見できなかったが、朝シャワーを浴びているときに、はっとひらめいたと話していました。シャワーでリラックスして、レンマ的知性が働いたのですね。
数学者で思い出したのは、インドの天才数学者ラマヌジャンです。この数学者のことは、たまたまJALの機内映画 「奇跡がくれた数式」 を見て知りました。彼は敬虔なヒンズー教徒で、正規の教育を受けたことがない少年でしたが、不思議な才能があり、難解な数式の答えを正しくだしてしまうのです。そんな才能を英国人に見いだされ、英国のケンブリッジ大学に入学して、彼の答えがどうして正しいのか、その証明に力を注ぎます。彼は、神様へお祈りし、瞑想すると、「ナマギ-リ女神が舌に数式を書いてくれる」 と言っていました。彼は夭折しましたが、そうして証明した定理は、現在、弦理論やブラックホール、電子重力の物理学者や数学者を支えているというのです。彼の南インドの故郷は、自然が素晴らしく美しく、情緒がこの上もなく豊なのです。岡潔が、数学は情緒でするものだと言ったことと重なって見えます。これも、レンマ的知性を呼び起こすには必要だったのではないでしょうか。ある学者は、数学は都会では生まれない。緑豊かな自然環境でしか生まれない、と言っています。
英国のスコットランド出身のスティーウ゛ンソンという作家がいます。『宝島』 の著者でもありますが、彼は、夜になって小説を書くのではなく、明日の朝にはストーリーが出来ていますといって、さっさと寝てしまったそうです。すると、朝には、ストーリーができていたそうです。これもレンマ的知性のなせる技なのかもしれません。
またチベットでは、昔から僧院に頭の弱い人を一人置き、その人の言動をみて、自分はまだまだと反省し、修行に励むという話を聞いたことがあります。頭の空っぽの人から生まれるレンマ的知性が、修行者を宇宙へ導くのでしょうか。
それから、夢や無意識にも、レンマ的知性が働くようです。物理学者の湯川秀樹やアインシュタインやミュージシャンのビートルズも、夢の中で発見やヒット曲を生み出したそうです。
きっと直観や夢の知らせも、レンマ的知性です。私は、アフリカを旅したときに、直感を信じて行動することが、身に付きました。スーダンの首都ハルツームで、白ナイル川と青ナイル川の合流地点を見物した帰り、道が二股に分かれていてました。欧米人のグループと一緒でしたが、彼らは右へ行くというのです。どちらへ行っても宿泊しているホテルへ着くのですが、私は何となくいやな気がして、とうとう私だけ一人で左の道を選んでホテルへ帰りました。ホテルへ着いて驚いたのは、右へ行ったグループは、途中強盗に遭い、お金やパスポートを取られたというのです。
昔、私の武道の恩師故早川宗甫先生にその話をしたら、早川先生も、同じような経験をしたそうです。戦争で腹部に砲弾をくらい、茂みに潜んで一人瞑想をしたそうです。分隊は右の道を行進して去って行きました。一人残された早川先生は、瞑想していたらどうしても右へ行く気がしなくて、左へお腹の傷を押さえながら歩いて本隊へ合流したそうです。のちに、右へ行った隊員たちは、待ち伏せしていた敵にやられて全滅したことを知ったそうです。
卑近な例ですが、昔、私は夢を見ました。一回も見たことのない、日本のお祖母さんの夢を、ロンドンで見たのです。お祖母さんが、夢の中で、「もうだめだよ。腰も痛いし」 というので、日本へ帰ったら診てあげるから、それまで頑張って、と言いながら目を覚ましました。あまりにもリアルで、不思議な夢もあるものだなと思ったその時、実家から電話があり、たった今、お祖母さんが亡くなったことを知りました。このような虫の知らせは、多くの人が体験しています。
『レンマ学』 では、脳を使わないレンマ的知性の持ち主に、タコを紹介しています。
タコは、人間なら脳に神経が集中しているのに、身体全体に分布していて、特に腕や吸盤などに集中しているという。吸盤一つに一万個のニューロンがあり、タコの腕には脳にあるニューロンの二倍近くもあるそうです。タコは、腕でも思考していて、匂いや味まで知覚できるというから、驚きです。タコは、頭を使わなくても、レンマ的知性を使っているのです。
タコには不思議な知恵があることは、古代ギリシアから知られていて、いろいろな占いにタコのレンマ的知性を使っていたようです。日本でも、確かオリンピックか何かの試合に、どちらが勝つか負けるかということをタコに聞いていました。かなり予想を当てたらしいですけれども、賢いタコは終わったら食べられてしまったようです。
脊椎動物と軟体動物の神経の発達が、大きく異なって進化したのは、エディアカラ紀(六億三千万年前)からカンブリア紀(五億四千万年前)の辺りだそうです。その時代に、生物に初めて目ができて、その目の周りに多数のニューロンが集まって、さまざまに神経系を発達させていくことになっていったからです。
タコで思い出したのですが、私はエッセイで、「以前、福岡のヨーガの講習会の前に、魚専門のレストランで、イカの刺身を食べたことがありました。まだぴくぴく動いて生きていました。そのイカの目を見た瞬間、誰かに見られているという気がしてなりませんでした。
不思議なことに、イカの目は、人間の眼球と非常によく似た構造をしていて、信じられないくらい複雑な眼球を持ち、人間の目に劣らないくらい精密にできているのだそうです」 と書いたことがありました。その時、書きながら、イカの目は人間の目に劣らないほど精密にできているのに、なぜ脳は貧弱なのだろうか。創造主のミスなのだろうかと思ったことがありました。私は、このレンマ的知性を知ってから、イカは貧弱な脳を使わなくても、立派な目からの情報を、自分の足で見ているからに違いないと納得しました。
このようなレンマ的知性を知った私は、身体障害者に対する見方が変わりました。脳が損傷している青年は、ロゴス的知性である頭脳は使えません。その反面、レンマ的知性は、表情ににじみ出てくるのかもしれません。彼のレンマ的知性が、私の存在を認めて、ほほ笑んだと考えれば、その青年の顔が崇高に見えたのは、私の錯覚ではなく、顔に宇宙の叡智が現れていたことになります。母親たちは、そのレンマ的知性の現れを、「天使」 「神さま」 「仏さま」 などと表現したのではないでしょうか。そこには、身体障害者の立派な人格が存在するのです。それを否定することは、宇宙を否定することに他なりません。
このような宇宙の叡智―レンマ的知性のあることを見落とすと、ロゴスの思考が、意志疎通のできない身体障害者は生きる価値がない、むしろ社会にいないほうがいいと考えてしまいます。実際、そのように考えた青年によって、2016年相模原障害者施設殺傷事件で、障害者が19人射し殺される痛ましい事件がおきています。
考えて見たら、瞑想は、脳の働きを努力してストップして、レンマ的知性を得る技法と言えます。ヨーガも、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガ根本経典)で、第一章の始めに、ヨーガとは何ですか、という問いかけがあり、その後に、「ヨーガとは、心の働きを止めることである」 と述べられています。ヨーガは、心の働き(ロゴス)をストップして、宇宙の叡智(般若プラジュニャー=レンマ的知性)を得る技法と言えます。
脳科学では、何も考えないことを、デフォルト・モードといいます。何も考えないと脳以外の何かが働き、ひらめきが起きるというのです。それを、デフォルト・モード・ネットワークといいます。まさに心(言葉)の働きをとめることでひらめきが生まれ、レンマ的知性が生まれるのです。
レンマ的知性の実例
岡潔という著名な数学者がいます。確かIQが平均値より低いということを聞いたことがありますが、それでも多変数複素関数論を発表し、世界で彼にしか解けなかった問題が幾つかあります。彼は、どうしても問題が解けないときはあきらめて、お風呂へ入ってお湯に浸かったそうです。すると、はっとひらめいて、難問が解けたりしたそうです。また彼は、数学には、情緒が必要だといって、数学とは関係ないように見られる芭蕉の 「奥の細道」 を研究しました。これもレンマ的知性を得るために必要だったのでしょうか。
また日本では、江戸時代に、関孝和という数学者が、独自に編み出した微積分の計算を応用して、西欧にさきがけて線形代数の行列式まで発見した人物がいます。彼の発見も、レンマ的知性を使うことで実現したのでしょう。
最近でも、ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が、iPS細胞は机の上では発見できなかったが、朝シャワーを浴びているときに、はっとひらめいたと話していました。シャワーでリラックスして、レンマ的知性が働いたのですね。
数学者で思い出したのは、インドの天才数学者ラマヌジャンです。この数学者のことは、たまたまJALの機内映画 「奇跡がくれた数式」 を見て知りました。彼は敬虔なヒンズー教徒で、正規の教育を受けたことがない少年でしたが、不思議な才能があり、難解な数式の答えを正しくだしてしまうのです。そんな才能を英国人に見いだされ、英国のケンブリッジ大学に入学して、彼の答えがどうして正しいのか、その証明に力を注ぎます。彼は、神様へお祈りし、瞑想すると、「ナマギ-リ女神が舌に数式を書いてくれる」 と言っていました。彼は夭折しましたが、そうして証明した定理は、現在、弦理論やブラックホール、電子重力の物理学者や数学者を支えているというのです。彼の南インドの故郷は、自然が素晴らしく美しく、情緒がこの上もなく豊なのです。岡潔が、数学は情緒でするものだと言ったことと重なって見えます。これも、レンマ的知性を呼び起こすには必要だったのではないでしょうか。ある学者は、数学は都会では生まれない。緑豊かな自然環境でしか生まれない、と言っています。
英国のスコットランド出身のスティーウ゛ンソンという作家がいます。『宝島』 の著者でもありますが、彼は、夜になって小説を書くのではなく、明日の朝にはストーリーが出来ていますといって、さっさと寝てしまったそうです。すると、朝には、ストーリーができていたそうです。これもレンマ的知性のなせる技なのかもしれません。
またチベットでは、昔から僧院に頭の弱い人を一人置き、その人の言動をみて、自分はまだまだと反省し、修行に励むという話を聞いたことがあります。頭の空っぽの人から生まれるレンマ的知性が、修行者を宇宙へ導くのでしょうか。
それから、夢や無意識にも、レンマ的知性が働くようです。物理学者の湯川秀樹やアインシュタインやミュージシャンのビートルズも、夢の中で発見やヒット曲を生み出したそうです。
きっと直観や夢の知らせも、レンマ的知性です。私は、アフリカを旅したときに、直感を信じて行動することが、身に付きました。スーダンの首都ハルツームで、白ナイル川と青ナイル川の合流地点を見物した帰り、道が二股に分かれていてました。欧米人のグループと一緒でしたが、彼らは右へ行くというのです。どちらへ行っても宿泊しているホテルへ着くのですが、私は何となくいやな気がして、とうとう私だけ一人で左の道を選んでホテルへ帰りました。ホテルへ着いて驚いたのは、右へ行ったグループは、途中強盗に遭い、お金やパスポートを取られたというのです。
昔、私の武道の恩師故早川宗甫先生にその話をしたら、早川先生も、同じような経験をしたそうです。戦争で腹部に砲弾をくらい、茂みに潜んで一人瞑想をしたそうです。分隊は右の道を行進して去って行きました。一人残された早川先生は、瞑想していたらどうしても右へ行く気がしなくて、左へお腹の傷を押さえながら歩いて本隊へ合流したそうです。のちに、右へ行った隊員たちは、待ち伏せしていた敵にやられて全滅したことを知ったそうです。
卑近な例ですが、昔、私は夢を見ました。一回も見たことのない、日本のお祖母さんの夢を、ロンドンで見たのです。お祖母さんが、夢の中で、「もうだめだよ。腰も痛いし」 というので、日本へ帰ったら診てあげるから、それまで頑張って、と言いながら目を覚ましました。あまりにもリアルで、不思議な夢もあるものだなと思ったその時、実家から電話があり、たった今、お祖母さんが亡くなったことを知りました。このような虫の知らせは、多くの人が体験しています。