人生100年、老いと死について考える 7
私たちは、若さにとらわれています。「まだ若い」 と思っているうちに、いつの間にか年をとってしまったことに、他人の姿を見て気がつきます。それでも、「まだまだ元気だ」 と考えます。元気がなくなると 「まだ生きている、大丈夫だ」 と考えるのです。私たちは、若さにとらわれているのです。 若さだけに価値があるのなら、若さを失った老人は無価値になるはずです。そういう人には、真の老年はありません。
インドの林住期のように、老いる前に自分の内面と向き合い、成熟を目指すのです。老いて死が近くなってから自分と向き合い、成熟を目指そうとしても遅いのです。
私は、今までにヨーガの合宿を行なってきました。これも考えてみたら林住期のようなものです。短い時間ですが家や日常生活から家族と離れて、自分の内面と向き合うのです。特に海外での合宿(インドやチベット、ブータンやネパール、トルコなど)は、旅に出た解放感や喜びと、自分と向き合うことができた貴重な体験は、まさに人生の大切な収穫物であり、老年期における宝ものであると思います。この年になってみて、ようやく私は、今までヨーガを続けて来てよかったとつくづく思います。
Aさんへのメモ
私は後日、95歳の男性へ日々の心持ちのメモを書いて渡しました。その内容を加筆して以下に載せることにしました。ご参考になれば幸いです。
死に方についての心構え
ご自分の死を選ぶことはできません。いつどんな死に方をするのかは誰にも分かりません。死を迎えるときは、死に方にこだわらないことです。苦しいときは、苦しんで死ねばいいです。立派な死に方をしようと恰好をつける必要はありません。
死に向かったら、そのまま受け入れるのが一番です。死ぬときは、ある程度は苦しいものだと、今から覚悟を決めておく方が楽に死ねます。死ぬ時に痛みがないようにとか、楽に死ねますようになど注文を付けたり、いろいろ求める人ほど、苦しむ気がします。
死が怖くなった場合
死が怖くなったら、こう考えてください。死を恐れているのは、死を意識している自分だけです。そう考えると死の恐怖を逃れる方法には二つあります。
一つは、死のことを考えないことです。多くの動物は、例えばかげろうのように、衰えるという過程をふまずに、繁殖して死んでゆきます。動物は死の恐怖を感じていません。
人間もそうです。ほとんどの人は普段は死を怖がっていません。死を意識していないからです。人々はいつか死ぬことはわかっていますが、今死ぬわけではないので、無意識に自分は死なないと思っているのです。ですから死の恐怖を感じなくて死んで行けるのは、夜寝ている間に脳溢血で死ぬか、事故などで突然死する場合です。
ところが、多くの人たちは死を目前にして死を意識した時に、今までのつけを払うように、動揺して、悶え、苦しむのです。
死は、眠りと同じようなものと思ってください。眠ってしまったら意識はありませんから。実は、他人の死はあっても、自分の死はないのです。自分が死んだとはわかりませんから。
もう一つの方法は、普段から死と向き合うことです。「メメント・モリ」(死を想え)です。できるだけ自分の死をリアルに思い描いて、死の恐怖に慣れることです。医師になった人たちの話では、初めて死体解剖や、患者さんを看取った時、大変なショックで数日間落ち込んで大変だったといいます。ところが段々に慣れてくると、死が怖くなくなってくるというのです。
ふだん自分の死と向き合っていれば、死を見据えた人生が始まり、死が怖くなくなって死ぬべき時に従容として死を受け入れ、上手な最期を迎えることができます。