生きて死んで、そして魂のゆくえ

人生100年、老いと死について考える 6

死んだら何もない、何かあるの二つの考えになる

 一般に死ぬのが怖いと思うのは、自分の存在が、記憶や思い出もすべて跡形もなく消え失せてしまうと考えるからではないでしょうか。
 死んだら何もないと考える人もいます。作家で都知事だった石原慎太郎さんのように、死をどう思うかと問われて、「死んだら終り、何もない」 と豪語していました。宗教や神仏はまったく信じないといっていた強気の人が、89歳で膵臓がんがみつかり、余命3ヶ月の宣告を受け、もし痛くなったら神様にお願いするかもれないと、揺れ動く心の内をみせていました。
 その反対に、死んでも何かあるのではないかと考える人もいます。そう思った方が心が休まるのは確かです。この考え方を、蓋然性が低いという人もいます。つまり向こうの世界などあるかないか証明できないからというのです。それは、死んだら何もないということも証明できませんので蓋然性が低いことになります。

 それでは、あなたはどう思うか?と問われたら、私は、死んでも何かあると答えます。それはある幾つかの体験を通してそう思いました。
 その中の一つは、以前、琵琶湖付近に住む60代の主婦を気功施術した時でした。途中深い眠りに落ちてしまい、1時間半経っても目覚めないのです。身体をゆすってようやく起きました。すると寝ぼけ眼で、突然ネイティブな英語を流暢にぺらぺらしゃべり出したのです。その後、英語以外の言語を話し始めました。
 私はドイツ語かと思いましたが、その時、一緒に来られた友達の男性が、「先生、この言葉はスウェーデン語です」 というのです。男性は昔、スウェーデンの首都ストックホルムに駐在員として働いていたのでした。女性は、すっかり目が覚めて日本語に戻り、友人たちからさっき英語やスウェーデン語を話したことを聞かされても、キツネにつままれたようにキョトンとしていました。このとき私は、前世や過去世というものがあると思いました。

 もう一つは、私の母のことです。20代のころ海外へ放浪の旅に出て、インドから5年ぶりに日本の自宅に帰ったとき、母にインドの聖地ブッダガヤのことを話しました。母は興味深く聞いていて、「いつか一緒に行って見たい」 といい、私も母にインドの旅を約束しました。
 それから20年ほど月日が経ち、その間に母は亡くなり、私はブッダガヤへ行くことになりました。そしてインドのホテルで母の夢を見ることになります。母の夢は、普段めったに見ることはありませんでした。その夢で、昔の母との約束を思い出してちょっと驚きました。その後インドの四大聖地を巡る間、常に私の横に母の存在を感じていました。この時、死んでも何かあるという思いを強く持ちました。

 そこであなたは、死をどう思うかと問われたら、死に直面したらやっぱり怖いと思うかもしれません。
 考えてみると、私たちは自分が肉体的に日々老いつつあるということは普段は感じていません。若いころからずっと変わらない自分で生きていると思っています。そして同窓会などで友人に会って、友人の姿から自分の老いを知らされるのです。

<<前ページ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 次ページ>>