生きて死んで、そして魂のゆくえ

人生100年、老いと死について考える 2

キリストの死

 考えてみるとキリストが死んだのは、たかだか30数歳という若さですから、キリストは老いと病を経験することもなく一生を終えたのです。そのため生と死しかなかったのです。つまりキリスト教文明では、生と死の二元論しかないのです。だから死を否定するのです。そこからアンチ・エイジングが生まれてきます。加齢や老化に抵抗するということです。ですから死は悪なのです。病院でも死ぬと悔しいといい、死が悪ものにされます。死を否定し、不老不死を目指すのです。「ニュートン」 の不死のサイエンスもきっとその延長線にあるのでしょう。もともと一神教では神様が人間を造ったことになっているので、仏教とはまったく異なっています。生と死の二元論では、老と病を乗り越えていく発想が欠如しているのです。

 ヨーロッパでは、老いをどう考えているのでしょうか。そこでボーボワール著 『老い』 を参考にして考えてみます。
 ボーボワールは、老いをネガティブな存在であることに着目して、前向きに老いるヒントなどはほとんど書かれていません。
 彼女は、老化は 「不可逆で不利な変化、凋落である」 といい、自分をコントロールできる間は老いを感じない、明確に感じた時に老いを感じるのだという。人は、老いを他人の身の上に起きるものであって、自分の身の上に起きるものではないと思い込んでいるというのです。確かに自分の老いは感じませんが、同窓会や昔の友人に会って、すっかり禿げ上がったり、白髪になった姿を見て老けたなと感じます。自分の老いは他人を見て知るのです。

 ボーボワールの指摘で、私は自分の心もそうだったと気がつきました。私は昔からずっと若いままだと思っています。昔、こんな体験がありました。赤ちゃんと小学生に気功の施術をした時でした。病気が治り体調がよくなったので、その二人のことはすっかり忘れていました。そして後日、またその二人を診ることになりました。私は赤ちゃんと小学生を想像していたのですが、立派な高校生や大学生になって現れたのでびっくりしました。 「もう15年も経ったのか」 という思いでした。私も同様15年も年を取っているのに、心の中では年を取っていなかったのです。明らかに自分の意識の中では、時間は止まっていたのでした。確かアインシュタインが、時間は物理的なものでもあり、また精神的なものでもあると述べていたことを思い出し、その通りだと納得したことがありました。

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