言葉から見えてくるもの 3
言葉には限界もある
人間は、記号である言葉を、コミュニケ―ションの道具として使ってきましたが、言葉は単なる道具ではありません。
言葉には、含み(心理的)があり、感情とは切っても切れない関係にあります。また言葉は、生きている現場でのお互いの心の働きでもあります。このように、人間は他の道具のように、言葉を脳から外して生活することはできません。
言葉は、人間にとってちょうほうで大変便利なものです。そして、なんでも表現できると思われますが、一方言葉を職業にしている人たちからは、言葉には限界があると言われてきました。
たとえば文芸評論家で作家の小林秀雄は、現代人は言葉でしか世界を表現できなくなってしまったと嘆きます。考えてみれば現代の私たちは、情報化社会の中で、言語に支配されています。SNSですべてが言語化され、私たちはそれを読み、分かったつもりになっています。
朝起きて陽が射すと、今日は晴れだ、朝日がきれいだと言葉にします。コーヒーを飲むと、苦い、美味しい、美しい風景をみると何ときれいだと表現します。朝日やコーヒーや景色を感じる前に、うすっぺらな言葉で表現してしまいます。
本来、言葉は体験を伝えるための道具であって、いつの間にか言葉が体験そのものを支配するようになってしまいました。
昔、インドでタジマハールを眺めていた時のことです。私の横にいた男性が、「ここにタジマハールがあります」 と iPadの画面を指していうのです。実物が目の前にあるのに、それを見ないで説明文を熱心に読んでいました。きっとこの人は、言葉で組み立てられたタジマハールを見ていたのでしょう。
小林秀雄は、もっとも大切なもの、美しさ、愛、悲しみの本質や、生きるということ、そして死という出来事を前に言葉で表現しようとすると、言葉は突然その力を失う。そのとき言葉はただ無力になって、沈黙になるのだという。その沈黙とは、思考や言葉が生まれるその根源にあるもので、言葉に尽せない何かが、そこにある。沈黙してそれを感じなさいという。
彼が追及したのは、純粋な体験でした。判断や分析が入り込む前の、生の体験そのものでした。本当の美は、身近な純粋な体験に潜んでいるのではないかというのです。
哲学者の西田幾多郎も、同じように言葉が出る前の、純粋な体験のことを考えていました。たとえば美しい花を見た瞬間、感動します。その直後に、これは菊だ、この花びらは何ときれいだろう、と言葉がでてきます。彼のいう純粋経験は、言葉が出る前の感動の体験を指します。その体験は花と自分の境が消えて一体となった状態です。そこは、彼がいう絶対無という沈黙の場所であり、自分が世界に溶け、世界が自分と一つになる場所だというのです。
他の多くの文学者たちも、同じように言葉の限界を述べています。
たとえば 「真の詩は沈黙のなかにこそある」 という詩人の谷川俊太郎は 「理想的な詩の初歩的な説明」 という詩の中で、私は世間から詩人と呼ばれているけれども、ふだんは全く詩というものから遠ざかっている。その詩人が、 〈詩はなんというか夜の稲光りにでも譬えるしかなくて〉 と言い、 〈そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ〉 〈その意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を〉 詩に書くという。 〈それは無意識ともちがって明るく輝いている〉 が、それを 〈言葉で書くしかないものだが詩は言葉そのものではない〉 というのです。
詩人は、詩ができる瞬間は、「夜の稲光りにでも譬えるしかなくて」 その一瞬に、「見て聞いて嗅いで」 詩ができるというのです。