竹富島で日本人のルーツを考える

言葉から見えてくるもの 4


知識よりも感じる力

 小林秀雄の沈黙に耳を澄ますことや、西田幾多郎の純粋経験、また谷川俊太郎の「夜の稲光り」 のような一瞬の体験を 「見て聞いて嗅ぐ」 ことなど、これらは言葉ではなく、すべて感じることから始まっています。

 日本では、古来から言葉には霊が宿るといわれ、言霊(ことだま)と呼ばれてきました。これも沈黙や純粋経験や絶対無の奥底から湧き上がる感じが、言葉となって現れてきたものだと考えれば、神の言葉である祝詞や霊力を持つ言霊が理解できます。

 私たちは、本当は知識を増やすことよりも、感じる力を育てることの方が、よっぽど大切なのかもしれません。
 脳科学者のジル・ボルト・テイラーは 「純粋に生物学的な視点から見ると、人間は、感じることもできる 「考える生き物」  というよりは、考えることもできる 「感じる生き物」 と述べています。(『WHOLE BRAIN 〈脳全体〉』(『「脳」の動かし方』竹内薫訳、NHK出版)
 生物学的に見ても人間は、本来感じる生き物なのです。感じてから言葉で考える生き物なのです。言葉で考えてから、感じるのではないのです。
 静かに物事を見つめる時間や、言葉にできない思いを大切にする心は、感じることでゆたかな人生になっていくのです。

 このように感じることを意識すると、言葉で支配されている普段の生活も変わっていきます。
 朝起きて陽射しを見たら、まぶしいとか、明るいという言葉を止めて、ただ光を感じるのです。風が吹いてきたら、気持ちがいいとか、冷たいとかいう言葉を止めて、ただ風に耳を澄まし肌で感じるのです。風景を見たら、美しいとか、綺麗だという言葉を止めて、ただありのままの風景を眺めるのです。

 あるいはヨーガのポーズをつくって横になった時、気持ちがいいとか、幸せだとか、リラックスしたという言葉を止めて、ただ体と床が触れている感触を味わい、感じるのです。

 するとあなたは、考えることを止めて、ただ存在している状態になります。あなたの魂は、ただそこに横になって、存在していたいだけなのです。その存在は純粋な意識であって、あなたはすべてとつながっています。そのつながって一つであるという状態が、本当の自分・真我とつながることを可能するのです。

 その床と体が一つになった状態でいると、ひらめきや、新しい発想や、気づきがもたらされることがあります。存在している状態を感じるコツがわかってくると、横になっていなくてもひらめきが起きます。私の例でいうと、ただ無心で歯磨きをしていたり、シャワーを浴びたりしているときに、ハッとひらめきや気づきがやって来ることもあります。山中伸弥教授も、IPS細胞を発見したのはシャワーを浴びていたときといいます。

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