生きて死んで、そして魂のゆくえ

生きて死んで、そして魂のゆくえ 10


 ノーベル物理学賞のロジャー・ペンローズは、量子脳理論で、意識の発生は脳の超分子レベルでのマイクロチューブル(微小管)で起きるという仮説を立てています。

 物理学は、すべて 「唯物論」 に基づいています。素粒子も含めて、すべての存在は物であるという考え方です。この唯物的な物理学の出発点は、人間原理です。認識しているのは、私たちの心ですから 「心」 を避けて通れないはずです。一方、すべての存在が 「心」 の現れであると捉える考え方が、唯心論です。

 たとえば、赤い色を見ても、見る人によって同じような赤い色を認識しているかどうかはわからないというのです。これは 「クオリア(主観的感覚)問題」 と言われています。物質(イオンの流れや電流)が、目に見えない感覚を生み出すのはなぜか? つまり、いかにして、物質が感覚(意識・精神)を生み出すのか? 唯物論では、認識や感覚は、神経回路の電気的活性パターンに還元できますが、この主観的感覚は、機械的なメカニズムでは説明ができません。このクオリア問題は、従来の脳科学や物理学ではどうやっても説明ができないのです。

 脳科学では、心とは脳の働きであると考えて、脳の研究はすごい勢いで進歩し、脳の神経細胞(ニューロン)の働きについては、ずいぶんと分かってきました。最近では、ペプシの味の方が好きなのに、ついコカ・コーラを買ってしまう要因の脳領域まで明らかになっています。
 ところが 「脳科学の父」 ともいわれたペンフィールドは、亡くなる直前に家族に話していた本音 「結局、心は脳にはなかった」 という言葉を、自分のお墓に刻んだのでした。
 最初は、ペンフィールドは、意識は脳の産物であると一元論を目指しましたが、実験の結果、精神と物質の二元論に至りました。
 これは、ベルクソンの純粋記憶(精神)と純粋知覚(物質)の二元論を支持するように思われます。

 ベルクソンは、『物質と記憶』 のなかで、脳は記憶の保存場所ではないと述べています。記憶とは脳から独立的に存在する非物質的なもので、精神であることを論証します。心と身体の関係を、ベルクソンは、服(心)とクギ(脳)の譬えを用いて説明し、ペンフィールドは心と脳を、プログラマー(心)とコンピューター(脳)に譬えます。ベルクソンもペンフィールドも、脳は心を実現する道具であると考えたのでした。
 ベルクソンの記憶理論は今から90年ほど前に確立されたものですが、脳科学の急激な進歩・発展にもかかわらず、ベルクソンの記憶理論を否定することができないのです。
 それでも脳科学者たちは、心は脳が生み出した副産物であると思って研究を続けています。

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