生きて死んで、そして魂のゆくえ 2
フランクルの言葉を思い出して
私は今まで重篤な患者さんたちを、何人も気功で施術をしてあげた経験がありました。奇跡的によくなった人たちもいましたが、一方どうしても回復に至らなかった人たちもいました。
その中の一例ですが、昔、40代の男性が悪性リンパ腫になり、全身に癌が転移していて、医師から手の施しようがないと死を宣告されました。その男性から 「いま死を待つばかりですが、もっと生きたい、そして悔いのない生活を送りたい」 という内容のメールが届きました。
彼は、一縷の望みを抱いて、私に遠隔で気功施術をお願いしてきたのです。 私は直観で、回復は望めないけれども、心を穏やかに導いてあげることならできると思い、遠隔で気を送ることを了承しました。
最初は彼から 「なぜ自分だけが、こんなに苦しい思いをしなければならないのかという、自分に対しての怒りと自責が出てきて、情けないです」 というようなメールが、次から次へやってきました。
私は、彼が必要以上に自己を責め続けていて、苦しんでいるということを理解しました。
私はフランクルの言葉を思い出しました。悪くなった原因を心に探し求め続けると、過剰に自己を観察することになり、苦しむだけであること。その苦しみから抜け出るには、眼差しを外に向けること。外に向けるとは、誰かの為に、何かの為にすることなどでした。
そして彼に、今に心をおいて 「なぜこんな苦しい思いをしなければならないのか?」 と人生に問いかけるのではなく、「このような苦しみの中で、あなたはどう生きるのか?」 と、人生が問いかけていると思って考えてみてください。その答えが、あなたの生きる意味になります。どうか眼差しを外に向けてください、と返信しました。
数日して彼は、「考えてみました。自分なりに答えがでました。いま私にできることは、私のところに来る人に、笑顔を見せることです。身体が動かなくても、笑顔ならできます。すると、看護師さんや、お医者さんや、掃除のおばさんたちにも笑顔が生まれます。私には何もできないけれども、笑顔ならつくれることが分かりました」 と連絡がきました。
その後、彼は久しぶりに、身心ともに楽になった様子を伝えてきました。
自分が悲しんでいれば、相手も悲しい顔になります。心を外に向けて笑顔を見せれば、相手も自然に笑顔が生まれるのです。私たちは些細なことでも、人のために良いことをしたという実感が、心の中に自然に湧き上がってきて、気分が高揚し、自分が生きている意味をも感じられるようになるのです。
それからしばらくして、「最近、死を考えると怖くなってきました」 とメールが届きました。
彼が死を怖がる気持ちはよく分かっていましたが、死んだ後のことまでは分かりませんので、私は以下のように返信しました。
「死を恐れることはありません。他人の死はありますが、自分にとっての死はないのです。自分が死んだと思うことはできないからです。ですから、心を明るく持って、生きるところまで生きるのです。
確実なことは、命には短いか長いかの差はありますが、誰でも皆死ぬのですから、100パーセント例外はありません。私も死にます。
インドの聖典 『バガウ゛ァッド・ギータ―』 には、死を次のように述べています。
〖人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、
主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く〗」
これが私からの最後のメールになりました。その後、彼との交信は途絶えました。