生きて死んで、そして魂のゆくえ 3
誰にとっても死は怖いもの
私は 「死を恐れることはありません」 と彼に伝えましたが、考えてみれば、誰にとっても死は怖いものです。死を恐れることは無理もないのです。室町時代の高僧一休宗純でさえ、臨終に際して 「死にとうない」 と述べたり、また南インドのヨーガの聖者ラマナ・マハルシも、はげしい死への恐怖に襲われましたから。その死の恐怖があったからこそ偉大な聖者になることができたともいえるのです。
こうして死について考えてみると、生まれた時から人間は、死に向かって生きることになります。生きることは、喜んでも悲しんでも、不可避的に死に近づくことに他なりません。このような問題は、2500年前にインドではブッダが、中国では孔子が考えていました。
ブッダは因果の理法を悟り、過去世・現世・来世を説いていました。孔子は、弟子に死について問われ、まだ生きることについてさえよくわかっていないのに、死についてなどわかるはずもないと述べていました。ちょうど同じ頃、ギリシア人たちも生と死について考えていました。
たとえば古代ギリシア人のプラトンは、私たちが普段の生活をしている現象界の死は、異界における誕生であると確信していました。真実の実在即ちイデアが永遠であるように、霊魂は滅びることがない不死の存在であると考えていたのです。他のギリシア人たちも、生は死であって、死は生であると思っていたようです。
これは決して生を軽んじているわけではなく、死があるからこそ、生きる意味があるのです。むしろ生きる意味を考えるならば、死を見据えて大切に生きることです。まさに古代ローマの警句、ラテン語の 「メメント・モリ(死を想え)」 です。
人はどんな人生であっても、人それぞれ生を生き切らなければならないのです。また人は誰でも必ず死ぬのですから、よく死ぬためにはよく生きることであるといえるのです。