生きて死んで、そして魂のゆくえ 5
(二)
死の本質と現代科学
それでは、死とはいったい何なのでしょうか? 古代の人たちは、死については、肉体から魂が抜けだしてしまうからであるとシンプルに考えていたようです。イメージが明瞭で理解しやすい概念であるので、宗教的心情に受け入れられていました。
ところが現代科学では、これを立証するのは困難なのです。魂(意識)は、現代科学では明確な定義がありません。ですからほとんどの科学者たちは、死の本質についてそこから先は科学ではなく、宗教の領域であると考えて向き合おうとしてこなかったのです。
ところが最近は最先端の科学理論を使って、その壁を乗り越えようとしているのです。そして魂(意識)のゆくえと死後の世界を解明できる可能性があると主張しているのが、量子論なのです。
理論の大切さ
理論と聞くと、私たちはすぐに理屈っぽいものだなと思ってしまいます。理論は個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系ですから、実は大変重要なものなのです。研究者によって時間をかけて苦労して作られた理論を知れば、その現象を手っ取り早く、ショートカットで理解できるからです。
最近こんなことがありました。私のサイトに載ったエッセイに、西表島の密林の沢で瞑想している私の写真がありました。それを見た数名の読者から、写真に私が不在ですとか、姿が見当たりません、どこにいるのでしょうか? というメールが届きました。
またあるモダンダンスの先生から、エッセイを開いたらパッと写真が飛び込んできたといいます。その瞑想している姿は少し前のめりになり、顔をあげ口を開けて滝行のような激しい水を浴びているように見えたそうです。その日はエッセイを読まなくて、後日また開いて写真を見たそうです。すると先日とは全く異なる穏やかな顔で瞑想している姿があり、びっくりしたそうです。
私は、この現象をすぐに理解できました。というのは、最近の脳科学の理論を知っていたのでショートカットで理解できたからです。
普通私たちが、目の前にあるものを知るには、目の前の網膜に達した光を感知し、それらの受容体が光を電気信号に変換して、その信号が脳の内部に伝わり、一群のニューロンがその情報を解釈して対象物が何なのかを認識するのです。
ところが最近の脳科学では、脳はそんなふうに機能していないことが分かったのです。実際はその反対に機能しているというのです。脳は前に見たものや知っていることに基づいて、目に映るはずのものを予測してその像をつくるのだそうです。脳に予見したものと違いがあると、その場合に限って、脳の予測と違っていた部分だけが脳に知らされるというのです。たとえば猫と虎の違いを見分けるように。
これで写真に私の姿が見えなかった理由が分かるのです。この人たちは、私のヨガの服装を見ていて、いつも全身まっ白だと思っていました。その私の白い服装姿を脳が予測して像をつくったのです。実はその写真の服装は全身が黒に包まれていました。だから私の白い姿がなかったので見えなかったのです。何回か見ているうちに、脳の予測と違っていた黒い部分が脳に送られて黒い服装の姿が見えてきたのです。
もう一人の、顔をあげ口を開けて滝行のような激しい水を浴びているように見えた人は、去年亡くなった阪本龍一が書き下ろし、最後の舞台作品となった 「TIME」 を舞台で観たといいます。舞台一面に敷き詰められた水へ、初めて水に触れるおどおどした人類を、ダンサーの田中泯が抑制のきいた動きで水浴びを演じた姿を見て、その姿を脳がリアルに予測していたのです。それだから脳の予測していた田中泯の姿を、写真に重ねて見てしまったのです。後日写真を見たときは、脳の予測と違う部分だけが目から脳に送られて、本来の私の姿が見えたのです。
私が最新の脳科学の理論を知らなければ、このような不思議な現象を理解できなかったでしょう。
死の本質と現代科学
それでは、死とはいったい何なのでしょうか? 古代の人たちは、死については、肉体から魂が抜けだしてしまうからであるとシンプルに考えていたようです。イメージが明瞭で理解しやすい概念であるので、宗教的心情に受け入れられていました。
ところが現代科学では、これを立証するのは困難なのです。魂(意識)は、現代科学では明確な定義がありません。ですからほとんどの科学者たちは、死の本質についてそこから先は科学ではなく、宗教の領域であると考えて向き合おうとしてこなかったのです。
ところが最近は最先端の科学理論を使って、その壁を乗り越えようとしているのです。そして魂(意識)のゆくえと死後の世界を解明できる可能性があると主張しているのが、量子論なのです。
理論の大切さ
理論と聞くと、私たちはすぐに理屈っぽいものだなと思ってしまいます。理論は個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系ですから、実は大変重要なものなのです。研究者によって時間をかけて苦労して作られた理論を知れば、その現象を手っ取り早く、ショートカットで理解できるからです。
最近こんなことがありました。私のサイトに載ったエッセイに、西表島の密林の沢で瞑想している私の写真がありました。それを見た数名の読者から、写真に私が不在ですとか、姿が見当たりません、どこにいるのでしょうか? というメールが届きました。
またあるモダンダンスの先生から、エッセイを開いたらパッと写真が飛び込んできたといいます。その瞑想している姿は少し前のめりになり、顔をあげ口を開けて滝行のような激しい水を浴びているように見えたそうです。その日はエッセイを読まなくて、後日また開いて写真を見たそうです。すると先日とは全く異なる穏やかな顔で瞑想している姿があり、びっくりしたそうです。
私は、この現象をすぐに理解できました。というのは、最近の脳科学の理論を知っていたのでショートカットで理解できたからです。
普通私たちが、目の前にあるものを知るには、目の前の網膜に達した光を感知し、それらの受容体が光を電気信号に変換して、その信号が脳の内部に伝わり、一群のニューロンがその情報を解釈して対象物が何なのかを認識するのです。
ところが最近の脳科学では、脳はそんなふうに機能していないことが分かったのです。実際はその反対に機能しているというのです。脳は前に見たものや知っていることに基づいて、目に映るはずのものを予測してその像をつくるのだそうです。脳に予見したものと違いがあると、その場合に限って、脳の予測と違っていた部分だけが脳に知らされるというのです。たとえば猫と虎の違いを見分けるように。
これで写真に私の姿が見えなかった理由が分かるのです。この人たちは、私のヨガの服装を見ていて、いつも全身まっ白だと思っていました。その私の白い服装姿を脳が予測して像をつくったのです。実はその写真の服装は全身が黒に包まれていました。だから私の白い姿がなかったので見えなかったのです。何回か見ているうちに、脳の予測と違っていた黒い部分が脳に送られて黒い服装の姿が見えてきたのです。
もう一人の、顔をあげ口を開けて滝行のような激しい水を浴びているように見えた人は、去年亡くなった阪本龍一が書き下ろし、最後の舞台作品となった 「TIME」 を舞台で観たといいます。舞台一面に敷き詰められた水へ、初めて水に触れるおどおどした人類を、ダンサーの田中泯が抑制のきいた動きで水浴びを演じた姿を見て、その姿を脳がリアルに予測していたのです。それだから脳の予測していた田中泯の姿を、写真に重ねて見てしまったのです。後日写真を見たときは、脳の予測と違う部分だけが目から脳に送られて、本来の私の姿が見えたのです。
私が最新の脳科学の理論を知らなければ、このような不思議な現象を理解できなかったでしょう。